2024年のノーベル平和賞に被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が選ばれたそうです。個人的にはノーベル平和賞そのものに疑問を抱いているので、はたして名誉なことなのだろうかと疑問には思いますが、被団協の活動成果が世界的に認められたことは間違いありません。

さて、被団協は、核兵器廃絶を目指す団体であり、核兵器を容認するような動きに関しては、ほぼ無条件に、反対するものと思われます。そのため、石破総理が言及する核共有に対して「論外」と発言し、総理に対して「考え方が間違っていると説得したい」と考えているようです。

そもそも「核共有」が何なのか、という疑問があり、報道番組で専門家の見解を聞くと、誰もが「何だこれ?」という状態で、どのような状態を目指しているのか明確ではありません。言葉のとおりに受け取ると、アメリカの核兵器を自衛隊が利用できるような状態にして、日本が他国から侵略を受けたとき、被侵略地に対して自衛隊が核兵器を使用できるようにすることなのだそうですが、確かにこれは「何だこれ?」という概念です。おそらく、単にアメリカの核の傘に守られるだけではなく、より進んだ状態にして、日本が核兵器による抑止効果を積極的に利用できるような状態にする、ということなのではないかと考えているのですが、正しいのかは分かりません。

さて、被団協の主張に説得力はあるのでしょうか。もっとも、核共有が何を指しているのか不明確である以上、議論する意味はないのかもしれませんが、被団協の主張が「核兵器に頼るような政治姿勢を取るべきではない」というものであると解釈して、考えていきます。

個人的な意見ですが、核兵器を廃絶することは、核兵器を置き換えるような超兵器が現れない限り(SF的な話をすれば衛星軌道上の超巨大レーザー兵器などでしょうか)、不可能であると思われます。なぜならば、すでに多数の国家が多数の核兵器を所有してしまっているからです。相手が核兵器を持っているのに、自分が核兵器を手放すことはできません。核兵器というのは、ひとつの都市を壊滅させるくらいの威力を持った、トンデモナイ兵器です。世界で最後に投下されたのが1945年で、それから80年近くが経過し、その間も研究開発が続けられてきたのですから、広島・長崎に投下された核爆弾とは比べものにならないような威力になっているでしょう。現代では、核兵器は使うことに主眼が置かれているのではなく(もちろん使いものになることが前提なのですが)、配備をして「撃たせないようにする」ことに主眼が置かれています。そのため、核兵器を廃棄するならば、保有国全てが同時に捨てていかなければならないのです。冷戦時代には、アメリカとソビエト連邦の間で条約を締結して、削減されていました。ところが、近年は核兵器を持っていなかった国が製造して配備するようになり、捨てていくという方向とは真逆に向かっているようです。

このような世界情勢の中で、核兵器を廃絶するということは、非現実的です。しばらく以前であれば、世界中の国は、国連の枠組みの中で動くため、国連が決めればいつかはすべての国が従っていくのだろうという夢を語ることもできたのですが、国連の中枢を担っていたロシアがウクライナに武力侵攻し、核兵器の使用まで言及するような事態を引き起こしてからは、言う気にもならなくなってしまいました。国連の枠組みを守らず、自国の利益を優先するような核保有国がひとつでも存在すれば、核兵器の廃絶は不可能と言わざるをえません。現在のところロシアは核兵器を使っていませんが、ロシアの存亡に関わるような情勢になれば、迷いなく使用すると思われます。

現在の世界情勢は、互いに核兵器を保有することによってバランスが保たれている、といえます。それが良いか悪いかは別にして、そのような状態になっていると言うしかありません。日米安保条約の性質についても様々な議論があり、日本がアメリカの核の傘に守られているのかは様々な立場があるようですが、現実に応戦するかどうかはともかく、核を保有しているアメリカが背後にいる日本は、核の傘で守られていると言って差し支えないように思います。少なくとも、諸外国からは、そう見えるはずです。仮に日本が核で威嚇されるような事態が起これば、アメリカも核兵器を交渉材料に使って威嚇を行うでしょう。繰り返しますが、それが良いか悪いかは別にして、そのような経過をたどるとしか考えられないのです。もしかすると、アメリカは核兵器で日本を守りません、と切り捨てるかもしれませんけれども…。

個人的な意見としては、一足飛びに核兵器廃絶を目指すよりも、うまく使う方向で考えていった方が良いのではないかと思っています。どのようにすれば、核兵器をコントロール可能な状態に置くことができるのか、ということを考えた方が良いように思います。恐ろしいのは、独裁国家などで、個人や団体が、誰からの制約も受けずに核兵器を使用できる、という状態です。現在は国際世論で使用を封じることができていますが、それも制度的な保障を受けたものではありません。何らかの手段で、核兵器の使用は特定の個人や団体だけで行うことをできないようにしなければならず、それが外部から確認できる状態に至っていなければなりません。それができれば、徐々に核兵器の削減をしていく道も見えていくことになるでしょう。対立や敵対をするのではなく、友好を装って取り入り、内部から崩壊させていくという戦法です。

まあ、ここで考えるような浅はかな計画などは、当然、被団協の方々も考えているとは思いますが…。そのうえで、あのような主張を表明しているのであれば、何となく、感情に身を任せた運営をしているのかな、と考えてしまいます。別に悪いことではありませんが、はたして、情熱だけで実現できる目標なのかな、と疑問を抱かざるをえません。