興味深い記事がありました。

メディアは、政治や芸能人など、外部に対しては強い口調で批判するのに対し、自分自身のことに対しては一切情報を閉ざしてしまう、という点については、そのとおりだと思います。

やらかしてしまったメディア企業自身が情報を閉ざしてしまうのは仕方ありませんが(報道されても当事者なので信用性を欠いてしまうと思われますし)、他のメディアが追及しないというのはおかしいと思います。

それ以前に、メディア企業同士で批判し合うことが少なすぎるのではないでしょうか。

日本では、表現の自由が憲法で保障されています。そのため、他者の行動に対しても自由に批判することができるはずです。一定の表現には、名誉毀損罪や侮辱罪などの刑事的責任が問われるほか、不法行為として民事的責任が問われることがあります。しかし、それに当たらないような発言であれば、自由に行うことが保障されています。

それにより、自由な意見交換が促され、個人の精神は磨かれていくのです。

今の世の中は、この表現の自由に対する規制が強すぎると感じています。他人の発言によって嫌な思いをしたとき、それはすべて規制すべきものでしょうか。他人の批判は、個人の尊厳を傷つけることが多いと思われます。しかし、自分自身を完全に客観的に見て、省みることのできる人は、どれだけいるのでしょうか。他人に指摘されなければ、自分自身の問題点を発見することはできません。自分自身でできる人は、そもそも、他人から批判されません。

表現の自由は、個人の幸福を追求するだけのものではなく、自分自身を磨くために必要なものだと思います。他人を自由に攻撃できる権利ではありませんが、他人を自由に批評できる権利であるべきです。自分自身の社会的評価は、外部から情報を得なければ、分からないものだと思うからです。

私も、裁判の主張書面で自分の主張がけちょんけちょんに批判されたとき、頭に血が上ります。ぶち○してやろうか、と思うこともありま・・・す? せん? ・・・明言は避けておきましょう。

それはともかく、そのような批判は、自分の主張を見直す機会になります。これが、主張書面では相手方に不快感を与えてはならないという規制がかかっていたら、どうなるでしょうか。確かに、見た感じは良くなり、心が荒れるようなことはなくなるかもしれません。しかし、それでは、自身を見直す機会がなくなってしまいますし、見直さなければならないというエネルギーが湧きません。

今の世は、人に不快感を与えてはならないという雰囲気が蔓延していますが、不快感は悪いことばかりだけではなく、新しい考えや行動に向けたエネルギーを発生させるという効力も持っています。それが良い方向に行くか、悪い方向に行くかは分かりません。しかし、悪い方向に行ってはならないと考えて、予防のために規制をすることは、人の自由を奪い、可能性を消し去ることになります。

話が発散してきましたが、つまりは、メディアは、批判されることを恐れず、自由に意見発信をしてほしいと思います。触りの良い話ばかりしていると、それは社会を発展させることにならないのではないかと心配しているからです。