ニュースを見ていると,「~について専門家の意見を聞いてみました」などと言って,弁護士などの専門家がコメントを紹介するという場面が多くあります。
 専門家がコメントすること自体に問題はなく,専門的に研究している方々の知見をかいま見ることのできる貴重な機会であることは間違いありません。しかし,視聴者は,そのコメントを見聞きするとき,よく注意しなければ,間違った考えや認識を持ってしまうことになります。

 まず,報道は,専門家のコメントから,番組にとって都合のよい部分だけを切り出している,という点です。
 報道局は,報道の自由という権利を掲げて,インタビュー内容を自由に編集することができます。
 たとえば,「AはBである。ただし,CであるときにはDである。」という発言があったとします。
 報道局は,Bという事柄を強調すべき(強調したい)と考えたとき,「AはBである。」という部分だけを切り出して放送することができます。また,Bという事柄は隠すべきだと考えたとき,「CであるときにはDである。」という部分だけを切り出して放送することもできます。
 もちろん,常にそのようなことをしているわけではないでしょう。
 しかし,上に述べたような切り出し方をすることは,何も制限されていません。しかも,切り出したところで,誰も検証することができません。仮に露見したとしても,報道の自由が認められているので,切り出した行為に対する責任を(法的に)追求することもできません。
 何の制約もなく,放送倫理・番組向上機構(BPO)が強制力を一切有しておらず,単なるお飾りにすぎないとしか考えられないことからすれば,報道局が上に述べたような行為をしない,という信頼は存在しないとしか言いようがありません。

 次に,専門家も,自分の考え方に基づいて話している,という点です。
 たとえば,三平方の定理の説明であったり,アルキメデスの原理など,誰が説明をしても同じ結果になるもの,すなわち,客観的な事実を説明するものであれば,それは話者にかかわらず信頼できるといえるでしょう。
 しかし,一定の事実に対する評価であったり,法律のあてはめなど,主観的な事柄が含まれてくると,話されたまま信頼することはできなくなってしまいます。
 特に曲者なのは,「普通ならば」「一般的には」という考え方です。
 「普通の人であれば,これこれは疑問に感じるはずです。」「一般的には,認められないでしょう。」という話は,話者が自分で持っている「常識」というものを前提とした話です。
 話者が弁護士である場合,弁護士にもいろいろな人がいます。政権与党を痛烈に批判している人,逆に政権与党を支持している人,特定の法制度を糾弾している人,逆に問題とは考えていない人,実にさまざまです。そのような中で,報道に出てくる方々は「自分がスタンダードである」という前提で話を進めているように見えます。
 そのため,専門家のコメントを本当に理解するためには,話者がどのような人物であるのか,たとえばどのような書籍を著しているのか,どのような仕事に携わっているのか,そのような紹介が十分になされなければ,とても不可能なのです。

 外から与えられる情報には,すべて,発信者の意図が混入しています。
 その意図に気付かず,ただ与えられるまま過ごすのでは,いいように操られてしまうことがあります。
 振り込め詐欺など,与えられるままに過ごす市民が多いために,広がってしまった犯罪なのだろうと思います。