報道番組を見ていたところ,メディアによる炎上商法(過激な言論を掲載して部数を伸ばす手法)が取り上げられており,戦時中の大本営発表と対比されて論じられていました。そして,メディアのあるべき姿について説いていました。
どうにも違和感を感じたので,ここで少し触れておきます。

まず,戦時中の大本営発表は,明らかな情報操作が行われていました。真実と異なる内容の発表をして,国民の戦意高揚を図っていたのであり,これが表現の自由に関係しないことは明らかです。また,民間の放送ではなく,国家が放送していた…はずですから,そもそも憲法のいう「表現の自由」とは異なります(現行憲法が適用されていた時代ではありませんが)。
一方,近時のメディアにおける炎上は,個人の主義主張を発表したことによって生じているものです。テレビ局の「やらせ取材」のようなものは別ですが,報道番組で取り上げられていた「嫌韓」の記事などは,主義主張の範囲であるはずです。
そのため,これらを対比すること自体,視聴者の印象を操作するものであって,番組が嫌悪している(ように見える)大本営発表と同じようなものではないかと感じました。

最近,ヘイトスピーチを制限しなければならない,ということで,条例が制定されているなどしていますが,これにも違和感があります。
もともと,表現の自由は絶対的なものであるはずです。人は,何を考えようが,信じようが,本来的に自由でなければいけません。人の思考というものは,それが人である証であり,個人である証であると思っています。そのため,思想や表現を制限することは,本来あってはならないはずです。
もっとも,それでは他人の人権が保護されないため,公共の福祉による制約が認められています。しかし,これは表現そのものを禁止するものであってはならないはずです。
表現に対する近時の規制や世論を見ていると,考えること自体が問題である,というような風潮を感じています。そのような意図でなければ心配ないのですが,過激な言動に対しては過激な対応を求めるようになってきているのではないか,と感じています。

表現の自由を認めるということは,人の多様性を認めて尊重するということです。
そのような気持ちが少なくなってきているのではないか,分からなくなっているのではないか。そのことに不安を感じています。